アラカンタロウの老後への道

アラカンの退職前になって老後破産・貧困老人から免れる方法を模索しながら試しているブログです。

お題「わたし柔道部でした」

今週のお題「わたし○○部でした」

こんにちは!アラカンタロウです。

わたし中学の時は柔道部でした。なぜ柔道部に入ったかというと、何となく入ったのですが、まあ柔道部に入っている連中は悪い奴ばかりでした。今から46・7年前の昭和50年代の話です。

私は小さいころから体が弱くて、運動会や何かの行事ごとがあるたびに高熱と嘔吐が止まらず、学校もしょっちゅう休んでました。体も痩せ細っていてガリガリでした。

中学に入って柔道をし始めると、(練習は上級生からのイジメそのものでしたが)体力がついて以前のように高熱に嘔吐のような症状が起こらなくなりました。

 

ただし体は痩せていましたから、下級生で柔道をやっていた太った体格のいい奴には、一撃で投げられていました。なかなか筋力もつかず、重い相手の寝技を返すことも出来なかったです。したがって、万年補欠でした。

太るために、食事をラーメンどんぶり山盛りにしてご飯をたべたり、牛乳パック1Lを毎日飲んだりして努力していたのですが、全然太れませんでした。

 

当時、私の行った中学校は市の中心街にあって、市内で一番悪い学校でした。学校には不良(いつも喧嘩ばかり)が多くいて、中には少年院から転校してきた生徒(事実は定かではありませんが、みんなが言ってました)なんかは、転校初日にバットに有刺鉄線を巻いて振り回していました。警察官が駆け付けて、すぐに退学でしたが。

まるでビーバップハイスクールみたいな感じです。

私たちも柔道の学校対抗試合で負けたからと言って、負けた学校に集団で乗り込んで喧嘩なんかもしてました。

今の時代からは考えられないような物でした。昼休みなんかも、いじめられっ子を柔道室に連れ込んで、脚をもって振り回し大車輪とか・・・完全に犯罪ですね。当時はそれが当たり前???でした。ただし万引きしたり、お金をせびったりは無かったです。

しかし柔道部以外の私の友達たちは、学校の成績もよくて、それにつられて私も勉強だけは真面目にしていました。友達同士で、学年テストで何番だったと競争したりしていました。

柔道の練習が終わって、柔道部のみんなは友達の家にたむろしに行きますが、私は帰って宿題です。おかげで他の市からも通ってくるような、県下でも有数の進学高校に行けました。

 

今から約50年前は、学校の先生も怖い先生が多かったです。授業中には、騒いだり・聞く態度が悪いなど何かあると、男子・女子生徒関係なく、先生にビンタをされてました。

怖い先生は大きな三角定規を持って授業をしていました。その定規で頭をコツんとされるのです。「痛くて涙が!」・・・

学校のことに親が難癖付けるなんて有り得なかったです。体罰OKだったのです。したがって犯罪を起こすような生徒はいなかったです。同学年には不登校もありませんでした。

昭和の中後期、高度経済成長期後のオイルショックの時代に荒れた学校、怖い教師、今に比べるとある意味、本当にいい時代(生きやすい時代)でした。

テレビも歌謡曲全盛期で山口百恵キャンディーズ郷ひろみ野口五郎ピンクレディーとかが出てきたところでした。

商店街はまだ栄えていて、開発がまだまだ進み、デパートが街に数軒あって、映画館やボーリング場、ゲームセンターも潰れてませんでした。

それが今ではシャッターおろして閑古鳥です。

現在は多様性の時代かなにかわかりませんが、男が化粧したり・中性的な恰好だったり・男女兼用の制服に・学校では呼び方まで強制されて、イジメはSNS経由。昔では考えられないような事ばかりです。(個人の感想です)

やっている悪いことは同じでも、陰に隠れて陰険なイジメで自殺。すぐにモラハラパワハラ・セクハラと言われて住みにくい世界になってきました。

話は逸れてしまいましたが、昔々の懐かしい思い出です。